猪木アリ戦で始まったプロレスの格闘技化年表

アントニオ猪木がモハメド・アリと戦わなかったら、日本の格闘技界はどうなっていただろうか。

アントニオ猪木が始めた異種格闘技戦は、アリ戦を除いてすべてプロレスの範疇に収まるものであったことが今では明らかになっている。

アリ戦だけが突然変異のリアルファイトなのだ。

あのときなぜ猪木は唐突にリアルファイトをしたのか。それは後の格闘技界にどういう影響を与えたのか。

そのことについて考えると、日本における総合格闘技の成立が、プロレスや格闘技と言ったジャンルの枠にとどまらない、必然的な時代の波動であったようにも思えてくる。

プロレスが総合格闘技化していった歴史

プロレスの格闘技化年表

上に掲げた図を見てほしい。プロレスはその成立過程から一貫して、リアルファイトのエンタメ化、ショービジネス化に心血を注いできた。つまりこの図の左側、競技の世界から右側のエンタメへと移行が行われてきた。

しかし、1976年にアントニオ猪木が異種格闘技戦を始めたことで、ショービジネスとして安定していたプロレス界に、突然変異的にリアルファイト化の波動が生まれてくる。

猪木アリ戦を見た猪木の弟子たちが、図の右側から左側へと移動し始めるのである。

1984年には第一次UWFが既存のプロレスをより格闘技化したイデオロギーを打ち出し、1985年にはUWFを脱退した佐山聡が修斗(当時はシューティング)を設立し、世界初の総合格闘技団体となる。

これまで一貫して競技→エンタメ、つまり左側から右側への移動に専念し、安定したシステムを保ってきたプロレス界で、人とお金の流れが逆回転し始めたのだ。

第一次UWFと修斗というエンタメから競技への移動エネルギーは、当初はお金がついてこなかったため、大きな流れになりえないようにも思われた。しかし、そのエネルギー波動は徐々にプロレスファンへ浸透し、少し遅れて1988年の第二次UWF旗揚げ時にはムーブメントとなった。

右側から左側への移動、競技化エネルギーにお金がついてきはじめたのである。このときからプロレス界が独占するはずだったお金・資本を格闘技が徐々に奪っていく流れが始まる。

第二次UWFでは、プロレス団体の興行内で安生洋二vsチャンプア・ゲッソンリットなどのリアルファイトも行われる。あとは全試合リアルファイトの興行、つまりプロレスの総合格闘技化が「いつ」行われるか、それだけが問題だった。

1993年にはパンクラスがリアルファイト興行を遂に敢行。プロレス団体がついに総合格闘技のフィールドにたどり着く。その2ヶ月後にはアメリカでUFCが出現し、競技側経由の総合格闘技とプロレス経由の総合格闘技がついに相まみえる時代となった。

同時期にリングスもリアルファイトの割合を増やし、新日本プロレスと抗争後に崩壊したUインターも後継団体キングダムでリアルファイト化の動きを見せた。

話は前後するが、1994年には安生洋二がグレイシー柔術の道場破りに失敗する。これ以降、有名レスラーが総合格闘技のトップ層といつ対戦するかが業界のテーマとなった。

このテーマは、PRIDE.1における髙田延彦vsヒクソン・グレイシーで完結する。プロレス側から始まったリアルファイト化の動きが、ついにビジネスとして成立するとともに、プロレス団体やレスラーが得てきた格闘技ビジネスの実権が、ビジネスマンに奪われた瞬間でもあった。

プロレスの格闘技化・競技化は必然だった

猪木は1976年に「プロレスこそ最強の格闘技」を自称し異種格闘技戦を始めたが、そのイデオロギーに従うと、いつかはプロレスと格闘技が同じルールで戦うことが避けられなくなる。

つまり、猪木のイデオロギー自体にプロレスを否定する要素があったことになるし、猪木はそのイデオロギー矛盾を自覚していたのか、1976年以降はリアルファイトを一切していない。

そして資本の流れも興味深い。アマレスがプロレスとなり、エンタメ化、ショービジネス化したのは資本の要求であった。要は、ガチンコはつまらないからお客を呼べないし、毎日はできない。つまり食っていけないからプロレスになった。資本の要求に人間のほうが合わせたのだ。

しかし、プロレスから格闘技への移行、図で言うと右側から左側への移行は、まずイデオロギー(「プロレスこそ最強の格闘技」など)があって、次にそのイデオロギーに魅せられた人がその波に乗り、最後にお金、つまり資本の順番で動いている。逆回転しているのだ(その証拠に、イデオロギー優先で誰よりも早く総合格闘技団体となった修斗は長い間、ビジネスとしてはうまくいっていなかった)。

ここにお金・資本というものの本質がある。

資本の流れ・方向性がいったん決まったら、人間はそれに従わざるを得ない。しかし、資本自身には動く方向を変える力はない。アリ戦のような資本の流れを変えるターニングポイントの前には必ずイデオロギーがあり、それを信奉する人間が必要になる。

つまり資本の方向を変えようと思ったら、まずイデオロギーを掲げて今ある世の中の人々の頭の中を変えねばならない。そして資本が流れる方向を変えるまで、資金調達し、ビジネスとして成り立つまで踏ん張らねばならない。

そう考えると、UWFの本質も見えてくる。UWFはプロレスファンを格闘技の世界へ引っ張ってくるためのイデオロギー的な仕掛けであったと同時に、格闘技ビジネスを成り立たせるための資金調達の一形態であったとも言えるのではないか。

猪木はなぜアリ戦へと踏み込んだのか

アントニオ猪木がモハメド・アリ戦へと踏み込んだ経緯には、対ジャイアント馬場、対全日本プロレスという視点があったのは間違いない。

当時、猪木はプロレスというジャンル内の覇権争いで、馬場を相手に勝てない戦いをしていた。

有名外国人を招聘するルートを馬場に握られていた猪木は、馬場と同じ世界感で勝負していたら負ける運命にあった。しかし、猪木はプロレスという枠自体をブチ壊すことで、、馬場を越えたと言っていい。

これはビジネスにも役立つ視点だと思う。

世の中で公平だと思われている競争、システムは実は公平でもなんでもないことが多い。たとえば、東大合格者の多くは、親が高学歴・高収入であることが統計からわかっている。つまり、親が低学歴・低収入ならば、勝つ望みは薄い。大学受験自体は公平・公正に行われていたとしても、そのシステム自体がすでに不公平なのだ。

こうしたシステムの中では、弱者はいくら頑張っても勝てない。猪木のように、既存のシステム自体を壊すしかないのだ。

それにしても猪木はなぜ馬場との勝負にこだわったのか。

単に社員を食わせていくためだけではなかったように見える。その背後に馬場への劣等感があったのではないか。

猪木と馬場はほぼ同時期に日本プロレスに入門しているが、元巨人軍でエリートの馬場は力道山に優遇され、猪木は差をつけられ、力道山の付き人としてパワハラを受ける日々を過ごした。

「なぜ馬場だけ優遇されるのだ」という理不尽な思い、劣等感。

こうした猪木の「心の傷」が総合格闘技を作った。

この経緯だけを見ると、少し怖くなる。猪木のような、歴史を変える偉大な事を成し遂げようと思ったら、「心の傷」が不可欠ということになるからだ。

たとえば、息子を偉大な男に育てようと思ったら、息子の心に傷をつけなければいけないのだろうか? それとも幸せに生きたいのならば心の傷などないほうがいいという既成概念が間違っているのだろうか?

この世を発展させ、人類を前進させているのは「傷ついた人間たち」である。猪木アリ戦を深堀りすれば、そんな恐ろしい事実にも気付くことができる。

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