髙田延彦の恐ろしさとは? 髙田vsヒクソン第1戦秘蔵動画とUWF幻想の崩壊

髙田がヒクソンに勝っていた世界線を想像したことのある人はいるだろうか。

髙田延彦は自身のYouTubeチャンネルで、1997年10月11日に行われたヒクソン・グレイシー戦の試合前・試合後控室の映像を公開した。

髙田ヒクソン第1戦は、何度見返しても、髙田には勝ち目がなかったという結論になる。それほどの惨敗だった。

プロレス最強幻想、UWF幻想はもろくも崩れ去ったが、それを信じたファンたちは今も置き去りにされたままになっている。

髙田・ヒクソン戦の秘蔵テープ

前編

中編

後編

前編・中編・後編の3本に分割された映像は、やはり緊張感あふれる重厚なものだが、髙田は試合前の心境を「死刑台に向かうような」とか「絶望」といった言葉で表現している。

勝てると思って試合に臨んだわけではなかったのだろう。

つまり、試合前から髙田はプロレス最強幻想、UWF幻想が崩れ去ることをわかっていたのだ。確信犯なのだ。

プロレス最強幻想とはなにか?

髙田ヒクソン戦を理解するためには、この当時のプロレスファンが、なぜプロレス最強幻想やUWF幻想にすがりついていたのかを解き明かす必要がある。

プロレスはそもそも、太平洋戦争で木っ端微塵に打ち砕かれた日本人の心の傷をごまかすための装置として発明された。

戦争に敗れ、進駐軍を見た日本人は、アメリカ人の体の大きさ、先進的な雰囲気に圧倒されただろう。もともと存在した白人コンプレックスに加え、戦争に負けたという動かしがたい事実。こんな人たちに適うはずがない、勝てるはずがなかったのだという思いが敗戦の傷をさらに大きなものにしたに違いない。

その心の傷をどうにかなかったことにはできないか、もしくは見えないように隠蔽する方法はないか。

そこで日本人がすがりついたのがプロレスだった。力道山が体の大きな白人を空手チョップで懲らしめる。その胸のすくような場面に、当時の日本人は八百長だと薄々気付きながらも、気付かないふりをしてプロレスに熱狂した。八百長であってほしくないという気持ちが勝ったのだ。

敗戦を隠蔽するための装置であったプロレスは、アントニオ猪木・新日本プロレスの時代には、現実の残酷さを隠蔽する装置に変わっていったと思う。

現実の残酷さとは、たとえば「持たざる者はどんなに努力しようとも持たざる者のままである」といった冷徹な事実である。

現実の残酷さを平凡な個人が、一人で受け止めるのは非常に難しい。

しかし、猪木はそれを隠蔽する装置を発明した。格闘技経験のない素人みたいな少年が、新日本プロレスの入門し「地獄の猛練習」という儀式を経ることで、最強になる、努力すれば報われるという世界観を作り上げたのだ。

ハラハラドキドキさせられながらも、猪木が常に勝つという安心して観られる結末は、現実世界で受けた心の傷を隠蔽する効果もあった。「俺も猛特訓するプロレスラーのように猛烈な努力をすれば、成功できるんだ」と信じることで、なんとか絶望せずに生きることができた。

ほとんどの人間が信仰を持たない日本人の間では、それは宗教の代替物として機能したように思える。猪木が非常に緊張感の高い異種格闘技戦でも勝ち続けたことで、それはより強固になった。

UWF幻想とはなにか?

猪木・新日本プロレスから派生したUWFもやはり、現実隠蔽装置である。

1980年代にすでに露呈していたプロレスへの疑問。ロープへ振ったらなぜ返ってくるのか、カウント2.9があんなに連続するのはおかしい…。こうしたプロレスの欠陥を修正した、より大掛かりな隠蔽装置であった。

「プロレスは八百長かもしれないが、UWFだけは本物」。そのお題目を唱えることで、冴えない凡庸な人間が、あたかも「本物を見抜く目」を持つ賢い人間のように振る舞うことができた。

UWFがこのような「冴えない自分を隠蔽するおしゃれアイテム」として機能したことから、第2次UWFはプロレスファン以外にも波及する一大ムーブメントを引き起こした。

残酷な現実を隠蔽する装置としてのプロレスと、冴えない自分を隠蔽するための装置としてのUWF。つまりUWF信者は二重の幻想に縛られていたと言える。

二重の幻想で信者を縛り上げた張本人である前田日明は、それを壊してしまうことの意味をもっともよく理解していたと思う。

前田は総合格闘技へ移行していく時代の中、リングスでなんとか「プロレスラーもそこそこ勝てる」世界を作り上げ、ソフトランディングさせようとしていたフシがある。

しかし、髙田は幻想を一気に破壊してしまった。これはキリスト教信者に「神はいない」と宣告するようなものだ。そんな恐ろしいことを、髙田はどうしてしてしまったのだろう。どうして彼には、そんな恐ろしいことができてしまったのだろう。

髙田延彦の強さ、恐ろしさとは

髙田がヒクソン戦へと向かっていく過程は、様々な本で語られている。榊原信行氏との出会いとか、契約問題とかはたしかに大きな影響があったのだろう。しかし、私は髙田が少年時代に母親に捨てられた、サバイバーとしての経験が、決断に影響したと思えてならない。

人間・髙田延彦は強い。一見、髙田よりも強そうに見える前田よりも強い。喧嘩が強いとかそういう意味ではなく、苦境に耐え、腹芸をもできるという意味で、人間としての総合力がある。

その髙田の強さは、母親がいないという恐ろしい世界を直視したことにより培われたのではないか。このまま幻想を保って隠蔽し続ける世界よりも、幻想が崩壊した後、新しい世界を作り上げる覚悟みたいなものを、誰よりも持っていたのではないか。

90年代後半に日本、日本経済が失速していくなか、終身雇用や年功序列といった日本の土着的な秩序も崩壊しつつあった。そうした崩壊とプロレス最強幻想、UWF幻想の崩壊が同期しているのは非常に興味深い。

つまり、プロレス幻想、UWF幻想の崩壊は時代の要請であったとも言える。となると、髙田がヒクソンに対戦しなかったとしても、何らかの形で幻想崩壊はしていたと考えることもできる。

UWF幻想がいずれ崩壊することが自明である状況の中、あえてその一番手として名乗りを上げるのもまた勇気である。髙田延彦にはそんな強さがある。

腹芸もできる髙田のことだから、もしかしたらまだ語られてていない真実があるかもしれない。しかし、やはりここではヒクソンとの対戦に踏み切った髙田延彦の勇気を称賛したい。

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